昭和47年12月12日 朝の御理解
御理解 第71節
「此処へは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。夜夜中、どう言う事がないとも限らぬ。おかげは我が家で受けよ。子供がある者や日庸取りは出て来る訳には行かぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」
大変みやすうまたは、厳しゅうも感じられる御理解ですね。まあしっかりひまな時にお参りをしてもろうて、しっかり信心の稽古をしておきなさいよと、いろんな家庭の事情があったりしては参ろうと思うても参られんのだからね。なんでもない時にしっかり信心の稽古をしときなさいそれとまめな時、此処へ参って信心の稽古をしておけと言う事は、まあいうなら、平穏無事な時と云うものでしょうけれども、または元気な時と言う事でしょうけれども。
例えば人間殆どの人がね、何時も寝たっきりという人もありますけれども、普通では、やはり日々健康のおかげを頂いて居るという人が殆んどであります。皆さんの所でも、今日こうしてお参りなさっておられる方達は、いわゆる健康に恵まれておる方達ばっかり。だから、そう言う時にしっかり信心の稽古をしておけと仰るから、その気でおりますけれども、朝、目が覚めなかったり、しるしかったり致しますと、この中々お参りが出来なかったり致します。
ですからその、そういう、言うなら平穏無事とか健康であるとかいう時にしっかり信心の稽古をしておけと。と教えて下さる事は大変だから厳しくも頂ける訳なんです。ですから是をもっと、なら是を私流に、私はどっちかというと非常に過激ですからね、もう自分でそれを思います。事信心に限ってだけは、非常に私はもうやかましい訳です。それと私に言わせると、例えば此処に、うちに子供のあるものや、日庸取りは、出て来る訳にはいかんと、こう言う風に言ってあるけど。
私はね、例えば子供があっても、例えば日庸取りであっても、ね、例えばどういう都合があっても、それを一にも神様、二にも神様、三にも神様というもう神様に向ける心と云う物を、貫かせて頂くのだ、例えば病人があったから、教祖のま頼み教えにはそう仰っておられるますね。病人やなら、子供の具合が悪いからと言うて、枕元にばっかりおったちゃ仕方ないじゃないかと。もうそりゃもう言う事聞かん時にほっとく様な気になって、信心してやれと言う風にも教えておりますし。
または厳しく、ままよ、ままよとは死んでもままよのことぞ、と言った様な厳しいみ教えもあるでしょう。ですから此処の御教え、七十一節はどのその様にも頂ける訳です。ね、そしてまあおかげは我家で受けよと仰る、おかげを受けると言う事から、やはり神様のお力、また神様の御信用、ね、御神徳を受けて信心が段々進んで参ります所から一にも神様二にも神様、それこそ三にも神様ともう、神様神様と押しの一手で行く以外にはないと、まあ私は大体それで皆さんに聞いて貰う。ね、
ですからとても先生の仰る様には出来んと、皆が言うのも当たり前なんです。けれどもあの過程においてです過程においては、今申します様な生き方から本当に是が徳であろうか、是が神様の御信用であろうかと、自分で思われる様になって参りますとね、もうそこには例えばこう言う御教えを頂かなくっても、一にも二にも三にも押して行かなければ居れなくなって来るのが信心です。だから愈々益々力を得て行く事になります。
金光大神御理解妙と言うのが、御本部で頂いて参りました。それにま是と同じ様な所で、ちょっと開けさして頂いたら、そこを頂きましたから、聞いて頂きましょうね。家内一同、仲良くして信心せいよ、彼岸餅などこしらえる時、子供が側でくれくれと言うのを神様へあげん先に、と言うて、頭を叩いたりしては神は喜ばん、先に子供にやって喜ばしておいて、それから神に上げてくれれば、神は喜ぶ、他所へ行っても台所で子供の頭を叩いて泣かせたりしては、ご馳走は出してくれても心良うないとある。
なんて言うですかね、まあ、一つの信心の無節度の様な感じが致しますね。彼岸もちに例えて彼岸もちでも作って、お母さんがお餅を作って、彼岸団子を作って、側で子供がそれをくれくれとこう言う、まだまんまんしゃんにも上げん先にでけん、と言うなと言う事です。ね、まんまんしゃまに上げてから、そしてから頂くだかにゃというてまあ、言うて聞かせる。ね、頭叩いてからまで出けん、と言う事はいけないと、けども、教える事は、良いと思うんですけどね。
けれどもこの神様、そう言う一つの信心の過程と云う物を、もう実にみやすうただ初めに仰った家内一同、ね、家内一同仲ようして信心せよと言う事なんかでも是は、非常にピンからキリまである。ね、例えばなら神様に作っておる仏様に作っておる団子でも、子供が欲しいと言うたらはいはいと言うてやる。是はやはり仲ようと言う事でしょうね。ね、また神様もそういう姿を喜んで下さるのであり、よそへ行ってから勝手の方でその子供を叩いたり、泣かせたりしてから、どんなにご馳走を出してくれてもです。
やっぱり心ようないと、神もそれと同じだと言う風に説いておられます。ね。けれどもそこがまた、教育でありましてから、あのね、今こうして作りよるけれども、分からん子供は仕方がない、けども言うて聞かせて分かるならば、是はね、仏様に上げて、お神様にも上げてから、そしてあんた達にも上げるからね、それまで待っときなさいよ、お行儀ようして待っときなさいよ、と言うのはやはり良いのです。ね、こりゃまあ、私の方の例なんですけれども、こりゃ昔からですね。
子供達がまだ小さい時に、御神前にお供えしてあるどんなにその子供の欲しがる様な物をお供えしておっても、あのお供え物を下げてくれと言う様な、子供は一人も居りませんでしたね。こりゃおかげを頂いておる。やはりそう言う意味での教育がでけておった。ですからこの七十一節もです、みやすう頂ければどんなにもみやすう頂けれますけれども、みやすい信心が何時まで続いてもいけない。ね、なら例えば此処でいうならば、はいはい上げますよ、というて上げる見易さから、ね。
言うて聞かせて分からせて、納得させて本当に神様に差し上げてから、さあお下がりよというて渡すと言う生き方、ね。かと言うと、もうそのくらいな事が分かってから、いうならばそれをくれ、あれをくれというごたあるなら、叱ってでもあんた達は何時まで分からんかと言うてもそれはね。そしてそれを本当に子供の心の中にも、神様第一主義と云う物をです、段々体得させる、何時の間にか分からせると言う生き方。そこから私は一にも押し二にも押し、三にも押し。
うちの場合はもう何と言っても神様が第一なんだから、子供ん時から、例えばくれと言うても、そのどんな物でも母は決して、神様に先にお供えをしなければ、頂く事は出来なかったと言う様なです、私は教育も有り難い。だから教祖様はこう仰っておられるからというて、見やすい所ばっかり取ったんでは、信心は成長いたしませんよね。例えばこちらが頂きようがです、何時もが、まめな時、此処へ参って信心の稽古をしておけと言う様な事でもです、まめな時と言うとは何でもない時。
今願う事も頼む事もない程しにおかげを頂いておる時にこそです、しっかり信心の稽古をしておけよと言う風に頂ますと大変厳しい事になります。けども実はその厳しい所を、が信心の、言うならば味わいなんですね、神様はそんなに無理をせんでも泣かせてからまでもね、また子供が病気しておる病人を置いてある、またはそげん忙しい所参って来んでもと言いなさるけどもね、それこそ歌の文句じゃないですけれどもね、雨の降るのにおじゃるなと言うに濡れておじゃれば尚可愛い、と言う事になって来るんです。
その尚可愛いと言う所がです、神様のご信用なんです。ね、今日はあなた雨風の時に、参って来る事がいろうかい、それでもやはり参らせて貰わなければおられない、いやむしろそう言う時にこそ、有り難いものが感じられれる体験が出来たらです、それが雨風をおしてでも参って来る。もうこげな雨の降る日に参って来んでもというけれども、なら神様は愈々この氏子は間違いないなあ、愈々この氏子は良い信心修行が出来よるな、と喜んで下さらんはずがない。ね。
だから合楽の場合はどうも、その辺の所を大変強調すると思うんですね。私自身がそこを通っておるからです。昨日も夕方からお風呂入りましたらお湯が出ない、水が出ないそれでその修繕をしてもらう様に、光男さんに電話を掛ける様に杉山さんに。そして四時のご祈念の時に出てきた所が、まだ水が出ない湯も勿論出ない。それであの電話かけたのかと言ったらその、電話を掛けたとこういう。けどももう今夜はなんじゃけん、明日でん良かけんで、どうぞお願いしますとこう言うたとこう言う。
だからねそう言う事ではいけないよと、すぐ電話を掛けなさいすぐ来てくれる様にお願いしなさい、もうそれはご祈念夜のご祈念がその頃でしたから、九時半も過ぎてましたでしょう。あ九時半じゃない八時半ですかね、九時までですからそれから若先生がすぐ電話を掛けました。もう部屋の方は暖房も入らないしお風呂は入いっとってもまだ、私が入った時から出らんのですから、皆あのいうならぬるい湯に入いっとるものは入いっとる、入らんものは入らんと言った様な状態ですから。
それではね此処も大変迷惑をしなければならない。けどもこちらがね少し甘い、よかあの明日でん良かけんでとい言うたら、光男さんは絶対明日しか来んだろう、なら明日は朝のご祈念でもお参りさしてもろうてからと言った様な元気のある人じゃないから、ね、明日になる例えば何時に来るか知らんけれども、一日の御用が巻きついてしまうじゃないかと光男さん自身の仕事、ね、だからね信心させて頂く者は、ようとその辺の所を心掛けとかならんが、本当に自分の人情の様な事でね。
人情で例えば事を運ぶと言った様な事ではなくて、何処迄も信心になれよと仰るのだから、何事にも信心にならせて頂いたら、すぐ来て下さい勿論いまちょっとこうこう云う仕事をしておりますから。向こうから何時何時というなら、いざ知らずけれどもまあ、夜だからしるしいもあろうけれども、今晩のうちに修繕しといて下さいといや、此処も例えば早速風呂にも入られる一晩中言うなら使わせて頂く暖房も使われるね、そすと光男さんもそれで言うなら、明日の朝の仕事を明日の仕事で十分出来るじゃないかね。
だからいかにもあぁたの都合のとき明日でいいけんでと言うのはいかにも、それが信心の様でありそれでいけない訳じゃないけれどもです、信心をさせて頂くものはそこの所を心掛けとかなきゃいけん。特になら神様のご信用を頂いておる、神様のお徳を段々受けておると言う様な人達ならば、此処んとこを絶対その様に大事にするんだと、言うて話した事でした。私は昨日ちょっとお客さんがあってから、お神酒を頂き過ぎとりましたから、お神酒頂きよってからすぐ。
此処へ今晩は神様あのご祈念をご無礼致しますから、このまま休ませて頂きますからと言うて休ませてもらった。所が熊本の日奈久からそちらに十時ごろ到着するぐらいで、お参りさせて頂きますから、親先生どうぞと言う事であったそうですから、だから十時前には起きて来る積りでおりましたけれども、だから丁度ご祈念の時間が一番いうなら、お神酒を頂いてきつい時ですからあのそのまま、久富先生と繁雄さんとおられましたから、二人の奉仕を受けて、そのまま眠ってしまっておった。
けどももうやんがて九時になろうかと思う頃にあの、目が覚めたのは今申しますように、八時半ぐらいでした。だからまだ此処で御祈念中であったですから、そのままお広前に出て来たんです。そん出てきがけにですね神様から私頂きましたんですけれども、例えて言うと自分の信心の徳を段々受けて行っておる、言うならばお金がどんどん貯まって行きよると言う時にです、例えば私この頃ある高利貸しの方に申しました事ですけれども、せっかく高利貸しをさせて頂くならねもう一つ本当のね守銭奴になんなさい。
人からもうどんなにけちんぼと言われても良いから、例えば一日でも待ちなさんな、一銭でもその利を負ける様な事はしなさないますな、もう取って取って取り抜きなさい、そうする事が相手も助かるんだと言う信念で行きなさい。そすと自分も助かるそいだけ余計儲かる事になるんだから、例えば是だけ貯め上げてるお金をです一銭でも、例えまあ無駄な事に使う様その、まあ言う様な事があってはならない。とまあ、いうなら金を貯めて行く人は、それこそ一線の金でも割って使う様にしかしませんよね必ず。
だからそこの所を信心で徹底して行きなさい。私も徳の亡者になりたいと自分で念願しておる、せっかく頂いておる神様のご信用、少しでも削る様なを事は、折角頂いておる神様の力を、から頂いておる力をです、一でも二でも、それをマイナスになる様な事があってはならないと思うから、そう言う心掛けでおるんだと、ね、だから、私は可愛い孫でも抱かんのだという意味の事をね、この頃から申します。ね、
大体言うたらなら夕べは私は神様の、にですもう夜の御祈念は今日は、もう出て来ないと言う事にして、出て来なくってもいいのですけれどもです、御心眼にあのフカと言う魚がおりますよね、このフカと言うのはもう実に貪欲な、食べ方をする魚だそうですね。人間でも例えば喰いち、その腕でも足でも喰い千切って食べると言うくらい、しかもそれが、荒がみしてから腕がそのままフカの腹の中に入っておると言った様な、その荒えさをする、いわゆる食べ物に対する大変な貪欲な、ね。
それを私頂きまして信心の例えば欲というのは、貪の字が付くくらいに貪欲にならなきゃいけないです。本当に信心の、私はそれに皆さんに夕べ話しを聞いて頂いたけどもです、ね、本当にあの私自身がこういう生き方で行って、皆さんの信心がです、例えばあの、本当に九分九厘まで出来て、後の五分のとこであやっふやになる時なんかは、惜しい、とても惜しいと、私は思うと言うてお話した事でした。ね、
ですからこれは自分に貯まって行っておる、お金が貯まって行っておればです、ね、もう本当にあの金を貯まって行く楽しみで、も減らす事は愈々、かえって余りお金を貯めきらん人が、がつついたりしますよね。信心でもそうです。おかげを頂いてもお徳を受けきらない人はですね、もう、それこそ自分、言うなら、勝手に今ここで言うならば、手前の所で行きます。ね、
今日はちょと都合があって大した都合じゃなくても、都合があるからというて都合にかまけてお参りもしない信心もしないと言う事になる。ね、だから例えばなら私共の是だけはどんな事があってもという信心の根性を奮い立てる時です、参られないと言う事は絶対にない。またそういう気になったら絶対おかげを下さる。もう絶対ね、例えば私があの愈々難儀時代に、月参りの御本部参拝だけは絶対のものだとして決めてきっておったです。ね。それが不思議な不思議な働きを得て、御本部参拝が出来ました。ね、
ですから、私は愈々力を受け、成程神様は此の様にも間違いがない事が分かった。もうそうにお願いしよりましたばってんとうとう、旅費のお繰り合わせを頂きません、ちゃっとお参りしょうと思いよりましたけれども、家庭にこんな都合があってから、お参りが出来ません、それでもなら、行けないじゃないよ行って来い、むしろそこではそういう無理をせんでも、ね、暇ん時に参れて言う様な風にも説いてあるのです。ね、
けどだから信心の過程ですから、其処の所を只何時までもそういう頂き方ではいけないと言う事なんです。ね、例えて最近なら言われておりますです、お日参り、しかも家族が勢を揃えて、是は私が皆さんに本当に求めておる、ね、それは私どもがそこを通って、私自身がおかげを受けておるから、それを言わなければおられないから言うてますけれども、ね、ま、家族勢を揃えて出来んなら、ならあんただけでも、なら子供だけでも、まあ夫婦だけででも、ね、と云う訳です。ね、
愈々お日参りが出来んなら、お日参り的信心をしなさい。ね、昨日、私はある方のお取次ぎをさしてもらったんですけれども、先生が最近五項目を言われて、お日参りを家族の者が勢を揃えてと言われますから、色々工夫させて頂いて、福岡から参って来る、毎日、此処にあの御理解頂いてから参って来る方があります。だから、参ろうと思やあ参られると言う事。ね、
勿論電車バスを利用して参って来る、ね、けども家族中と言う事は中々出来ない、ね、そこでです、なら、家族中が勢を揃えて、お日参りをさせて頂く様な思いで、一日の内の、一番ゆっくり出来るご祈念をです、さあご祈念よ、ご祈念よと言うて、皆がご祈念をさせてもらう。そん時にお賽銭箱を作っといて、お賽銭箱にお賽銭も銘銘が入れる。そしてその中心になる者が先唱させて頂いて、一生懸命の例えば、五項目の祈りと云う物を一生懸命に祈らしてもらう。ね、
お日参り的信心そう言う風に工夫してもいいじゃないですか、はあそう言う事もありますねとこう云う訳なんです。やはりやはり工夫しなければいけんです。もうお日参りと言われるけれど、お日参りが出来んからとそれでぷつっと切っちゃ出けんです。責めてでもそれに近づかせて頂こうとする精進が必要です。子供達にもまた信心の薄い家族の者にでも、五項目だけ覚えたか、あの事をしゃっちでも言わなきゃならん、どうでも是だけは願わなければいけないぞ願うからには、その下についておる所のいわば条件ね。
おかげの条件と云う物も、本気で守らして頂く気になきゃならないぞと言う事になる。ですから自分の信心でいうならば、話を聞いてまあ現在言われておる、なら五項目が実際に行じ抜かれるおかげを頂く為に様々な工夫をさしてもろうて、おかげを頂かなければならんと言う事、同時に、ね、例えば、出来ない所は出来んからと割り切ってしまわずに、ね、それでも、こうでもさして貰わなければおられないと言う信心が、私は真と言うのであり、ね、それが信心を本当に頂こうとする者の姿勢だと思うのです。
是も合楽でもどうでも、そのくらいな積極的な信心が、銘々なされなければいけません。最近はあの五項目を皆さんが一生懸命唱えて修行なさる。唱えるだけでなくてそれに対する所のね、人を責めませんとか、ね、それこそ、大酒大食は致しませんとか、ね、その事を願っておるので御座いますから、ね、家繁盛子孫繁盛を願っているので御座いますから、いわゆる自分の仕事に忠実にならして頂きますと、ね、
また無駄使いなどは致しませんと、それこそ身を削ってでも、修行させてもらいますから、どうぞ家繁盛のおおみかげを頂かせて下さいというて願う。ね、それが非常に最近は皆さんがおかげを受けておられますですね。是は私も早速おかげを頂いた事があるんです。私は非常にこの秘結を致します。それであの皆さんはどうか知れんけれど、とう芋を頂きますとね、さつま芋を頂きますと、非常に通じが快便ですね、所謂良くなるんです。ですからお芋を頂きますと、もう私が一人で頂くくらいによく頂くんです。ね、
ですからもうやはりこりゃ通じには、あの芋はいいなと思わせてまあ頂いておった訳ですけれどもね、最近私お夜食を致しませんと言う事にもうここ四、五日ですもう本当に是ははっきりしておりますけれども、それこそ唐芋を頂かなくても、いわゆる快便です。もう実に気持ちのよいお通じを頂くんです。ほうしてみるととう芋よりも、例えば通じ薬よりも浣腸よりもです、ね、そげな無理な事をしなくっても、不自然な事をしなくっても、自分の心が改まること言う事が一番効くなと言う事です、体に。
もう皆さん本気でその事を、今言ってる事を決心して下さい。もうそこに必ず体験が生まれるです。現在のあの五項目の中から。もう私はね本当のその翌日から快便のおかげを頂いています。ね、だから二番目に効くとが唐芋だなと言う事になるじゃないでしょうか。ね、例えばならお通じにはですょ。ね、だからそれをもう無理して食べんと言うとじゃなくてから頂いたらやっぱ頂く、それも効くね、神様のおかげで、食べ物によって快便のおかげを頂く一番効くのは自分の心を改まると言う事が一番効くと言う事。
是は、体だけの事ではありません。もうおかげのすべてに繋がる事です。昨日も熊本からお礼に出て参りまして、この八日の日にもう初めの間は十日に一辺じゃったのが、もう一週間に一辺になり、最近では五日に一辺と言う様にして参って来るんです。して昨日はちょっと遅くなるから十時ごろと言ってましたけれど、あの九時半頃でしたかね、お参りして来ました。ほいで此処でお届けをされますのにです、もう本当に、なぜお参りをしなければおれないかと言うとね。
親先生が、私共がお参りをするたんびんに、おかげを頂かれると言う事がもうはっきりして、ご飯がいけんのがいける様になる、お通じがなかったのが、お通じが頂く様になる。というてもうそれこそ涙を流さんばかりに、先生が、二人の信者に対して、もう喜びなさる。今日もまだ寝たっきりでおありになるのが、電話が掛かって参りましたら、その親先生が電話を掛けてきて下さる。ほらもうだから電話んとこまで歩いて、もう今日は一人で、お便所にも行ったと言うて言われる。
さあそれでは早うお礼参拝しょうじゃないかと言うて、それでまたお礼参拝して来てある。ね、ほいで先日のあの、月次祭のときに、皆さんにも聞いてもらったあの、超大関、ね、それからあの、西海福寿というお神酒を、あの兄弟が持ってお参りしたですから、それをまあお供えしてあるが、ね、あの事から今度の月次祭にゃ御理解を頂いたが愈々もって、超大関と言う様な力を頂かなければならない。そして西海一と言われる程しの、西海一と言う事は日本一と言う事でもあり、世界一と言う事でもあるのだ、
だからそこを目指さしてもらってです、愈々福寿のおかげを頂かなければならない。その日は大きな大黒様のお供えがあって、もうそれこそ大黒様の体の倍ぐらいあるごたある大きな打ち出の小槌に、うち腰掛けてあるところの大黒様のお供えを頂いたが、その、西海福寿と言う銘柄と、それから超大関というあのお酒の銘柄のなかから御理解を頂いたんだけれども、ね、あなた方もそのご理解、その事を頂いて行ってくれよと言うて、その話をさせてもらった。ね、
そうして、あの丁度ご本部参拝の日に、八女郡からあの石橋先生がお礼に出て見えた時の話をさせてもらった。もう現代の医学ではどうにも出来ないもの、ね、現代の医学では、もうあの、けども私が、丁度あの、初めてお参りになった時、丁度あのたまたま、ここの富永先生の奥さんが、あの、お茶を運んで来てくれた。そで石橋先生、そん耳鼻科に関する事ですからね、耳鼻科ですから、ね。
あの悲観、もう良うならんもんだと悲観せずにですね、おかげ頂きますよあなたのは、と言うた時には、何事いうじゃろうかと、と言う様な顔してなさいましたけどもね、そういう、微妙な働きがあっておるのだから、おかげを頂く、それから、お休みたんびに必ず参って見えて、それこそ合楽の御理解の素晴らしさにもうほとほと感心して、心が安らいだ、安心が出来て来た。是はほんなこて、是は親先生のお取次でおかげ頂くかん知れんちゅうごたある思いがする様になったら、最近ここ二、三週間と云う物はね。
その病気の苦痛と言うか症状と言うものをぜんぜん感じなくなった。ちょいと、神様のお働きには恐れ入ってしまうと言う、お礼のお届けがあった。ね、そん時に私が頂いたのが、この楽という字であった、合楽の楽という字、ね、いわゆる例えば大変に、もう自分では悲観しておる、心配しておるその心がです、信心をする様になって修行さしてもらう様になったら、心が安らいで来た。心が楽になって来た。先生が言われる兎に角、成り行きを大事にしなさいよ。
全ての事を御事柄として受けなさいよという。信心が段々出来てきた。ね、心が愈々楽になって来た。そしたら、私のご心眼にその楽という字の上から草冠がずうっと下りて来る所を頂いた。ね、楽という字に上から草冠が下りてきて御覧なさい、これは薬と言う事になる。是はいわば薬以上の薬と言う事、医者では今ではどうにも医学ではできないと言う様な病気までがです、そういう心が楽になると言う事に自然の働きが、天地金乃神様の働きと云う物がそれに寄り添う事によってです、ね、
奇跡的なおかげを頂く事が出来る。それこそ改まると言う事によって心が休まる、改まると言う事によって心に喜びが沸いて来る。ね、その心がです成程自然の働きを呼ぶ事が分かりましょう。だからそういう自分の心に安らぎを頂けれる程しの信心は、例えば一日お参りをしなかってもです、もう、かげるです。ね、ですからそういう例えば、いうなら安心の心楽の心とその楽な心でです、ね、喜びの心でならあの五項目を祈って、祈って祈り抜けとこう云うのである。
しかもなら、それを日参りをさしてもろうて、家族が、兎に角あなたも、お前も参ってくれと言うてです、ね、家族勢を揃えて信心をする、けれども、もしそれが出けんならばです、ね、一つあの日参り的信心でもなさったらどうかと、ね、家庭で是だけは自分の日常生活の中にです、ね、一家中が勢を揃えて、ご神前にぬかずいて、ね、中心になる先昌のあとから、ね、一生懸命のご祈念も、五項目を繰り返し繰り返し祈り誓わせて頂く所のです、信心が出ける。
是ならば出けるやろうと思えば家庭ですぐ実行が出ける事ではないか。そしてそこから、有難い物が愈々頂ける様になったら、もう是ではちっと惜しゅうなって来る。それこそ一人でも二人でも多く日参りのおかげが出ける様なお繰り合わせが頂けて来る。ね、やはり工夫しなければいけない。ね、そう言う様な事をです、今日は七十一節から感じとらせて頂いた。教祖様は、ね、例えば仏様に上げる団子を作るそん時に、ね、子供が欲しいという時には、怒ったり叩いたりせずに、ね、やれとこう仰とられる。
それの方が神も嬉しいんだとこう、ね、けれども本当に一にも神様二にも神様という生き方はです、ね、教祖様が仰っております様にです、ね、それを躾をして行くと言う事はもっと有り難い事である、怒ったり叩いたりする事はいらん、いやそう言う事を全然欲しさせない所までです、おかげを頂く事はよりまた有り難い事である。そこから一にも神様、二にも神様、三にも神様、ね、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておくという、ね、まめな時は遊んで回っておる、吾が良かごとしよる。
そして苦しゅうなって来てから、神様と言った様な、反対な事を私共はしておると言う様な感じがする。ね、それでは、本当のおかげになるはずはないので御座います。ね、そして私ども心豊かな生活をさしてもらう、自分の心のそうした安らいだ心、ね、いうならその安心の心いうなら楽な心その楽な心で、成り行きを大事にさしてもらう、その心でね一切を御事柄として受けてもいこう、そして祈りの中には、ね、五項目の祈りを本気で、一家中でさして頂こう。
そしてそれに対する所の誓いもまた、神様に奉げさせて頂いて、信心生活をさせて頂こう。金光教の信心が、もう骨の髄まで染み渡って来る様なおかげを頂く為には、神様が無条件にこの一家にはどの様なおかげをやっても良いと思し召す程しのおかげを頂きたいと私共は願います思うております。だからこそあの五項目の願いでありますからね、それを頂けて行くことの為の過程には様々な所もありますけれどもそれを一段一段、例えば朝のご祈念にお参りをするというても段々。
最近なんかはもう私四時のご祈念なんかは、もう兎に角初めから誰もいらん、自分一人でするご祈念だと思うておりましたからね、いうならばもう水の中で、私一人でご祈念を静かに静かにするという、気持ちでしたけれども、私に付いて来てくれる子供たちが出来る様になり、ね、または親先生の四時のご祈念を頂きたいという人達があって、御神前に座ると、もうすでに、後ろでミスを巻き上げられておる。ね、そして四時のご祈念を頂きたいという人達がだんだん、この頃は増えてきた。
と言う様になら、五時のご祈念に間に合いさえすれば良いと言うのじゃなくてです、ね、其処ん所を十分づつでも、二十分づつでも、信心の方へ向かう様な心掛けが大事じゃないでしょうか。いろんな事情でです、唯御理解だけぐらいしか頂けない、という人もありましょう。もう本当に御理解が終わってからしか此処に到着できないという人もあります。ね、例えば北野の関さんとか、吉井の熊谷さんあたり、波多野さんあたりは、みんなそうです。バスを利用されますから、それは実に残念な事。
けれどもならテープを頂く事によってす、そしてたぁまぁにぐらいはです、合楽にいろんな会合がある時ぐらいには、泊めて頂いて、それこそ親先生が三時半に起きられるなら、三時半に一緒に起きて、その雰囲気を頂かせて頂たいと言う様な精進をいわばばなさっておられます。ね、ですからね、あの例えば此処に現れております様にです、ね、自分の都合の良か時に参って、信心の稽古をしておけと言う事は、見やすうも頂けるけれども、実を言うたら大変厳しい事でもあるのです。
実を言うたらその、ま、言うなら、なんでもない、どうでもこうでも、この事ば頼まんなん、願うわんなんと言った様な事の、その、ない時の方が実を言うたら多いのですから、ね、だから其処の所を、信心の時間に当てさせて頂くならば、本当言うたら、もう信心に是はどういうかというと、しっかりお日参りをせよぞ、というばかりの是は私は御教えだと思うですね。
どうぞ。